HOME


 

書評

J.M.ケインズ『ケインズ全集第八巻 確率論』

佐藤隆三訳、東洋経済新報社、2010.6.刊行

東洋経済201087日号、118頁、所収

 


 

 ケインズの裏のバイブル、とでも言うべき本がついに出た。名実ともに、二〇世紀最大の経済学者が著した、唯一にして無二の哲学書がこれである。

 大学を卒業した若きケインズは、一官僚として働きはじめたものの、性に合わず二年間で退官。大学に職を得るべく、確率論の研究に没頭した。その成果が本書であるが、いま読み返しても、その論理的道筋の清新さに圧倒されてしまう。文体も嫉ましいほどに魅力的だ。

 刊行されたのは一九二一年。ケインズはすでに、『インドの通貨と金融』や、ベストセラー『平和の経済的帰結』(パリ講和会議の講和条件に抗議したパンフレット)を著して、かなりの名声を博していた。

 だが本書の校正刷りは、その七年前にさかのぼる。ケインズは二人の哲学者、ラッセルとヴィトゲンシュタインといっしょに、自著の草稿を検討したりもした。イギリスでは、五五年ぶりに著された確率論の体系的書物、とケインズは自負していたようである。

 ケインズ確率論の核心は、「推論と確率における相対的論理」というもの。ある命題が正しいと言えるためには、その命題を正しいとみなすための他の諸命題が、集合体(グループ)として存在しなければならない。その命題が属する集合体の論理にしたがって、命題の確率は判断されなければならない。

 例えば、「pならばqである」という命題の真理性は、ある事実に即して、直接的に認識されるのではない。この命題の真理性は、「pは真である」とみなすための諸命題と、「qは真である」とみなすための諸命題のあいだの、包含的な関係によって決まってくる。

 命題とは、事実ではなく、ある種の言説(ディスコース)である。ならば命題によって表現される確率も、「言説の世界」において決まるはずである。言説の世界に、確率の論理的問題を位置づけ直す。それがケインズの企てであった。

 本書は、刊行の後、ラムジーによる徹底的な批判にさらされるが、決定的な打撃は、カール・ポパーの反証主義によって、帰納法の意義が一掃されてしまった点であろう。ケインズの確率論もまた、その煽りを受けた。

 だがマクロ経済政策の問題は、結局、確率の問題に戻ってくる。ケインズはのちに、本書の欠点を認めて方向転換をするが、本書の論理的な作業は、読者に対してよりも、ケインズ本人に類まれな思考力を与えたという。ケインズを継承するためには、確率論に拘泥しなければならない。思考の強度を鍛えるための、恐るべき一冊だ。

 

橋本努(北海道大准教授)